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2 埼玉県政

花見日和 各地で今年一番の暖かさ

桜花の候、日本人の「心」を問う ― 浮かれた報道の陰で失われるもの

「各地で今年一番の暖かさとなり、絶好の花見日和」――。
春の訪れを告げる朗らかなニュースが、各メディアを賑わせている。満開の桜の下、人々が笑顔で集う光景は、我が国の平和と豊かさの象徴であり、実に喜ばしいことである。

しかし、この麗らかな春の陽気にただ浮かれるだけで、我々は本当に良いのだろうか。桜を愛でるという、古来より受け継がれてきたこの美しい伝統の裏側で、我々が失いつつある大切なものについて、今こそ静かに省みるべき時ではないか。

花見に宿る日本人の精神性

そもそも、我々日本人にとって桜とは、単に美しい花ではない。満開の華やかさと、潔く散りゆく儚さに、人生やもののあはれを重ね合わせ、古くから歌に詠み、絵に描いてきた。それは、自然の移ろいの中に美を見出し、万物に敬意を払う、日本人の精神性の発露そのものであった。

家族や地域の仲間、あるいは会社の同僚と桜の木の下に集うことは、単なる宴会ではない。それは、同じ共同体に属する者同士が、同じ美しいものを共有し、絆を再確認するための神聖な儀式であったはずだ。

憂うべきは「公」の精神の欠如

ところが、昨今の花見の光景はどうであろうか。過度な場所取り、大音量の音楽、そして宴の後に無残に残されたゴミの山。これらは、もはや我々が誇るべき伝統文化の姿ではない。

他者への配慮を忘れ、自らの欲望のままに振る舞うその姿は、「自由」の履き違えであり、公共の場における秩序と品格を著しく損なう「放縦」に他ならない。我が国が古来より大切にしてきた「公」の精神は、一体どこへ行ってしまったのか。美しい桜の下で繰り広げられる醜い振る舞いは、日本人の精神的な荒廃を映す鏡のようで、ただただ嘆かわしい。

「今年一番」の暖かさに惑わされるな

また、メディアが「今年一番の暖かさ」といった言葉でいたずらに人々の感情を煽り、すぐに「異常気象」「地球温暖化」と結びつける風潮にも、我々は冷静な視線を向けねばならない。

地球の気候というものは、数十年、数百年、あるいはそれ以上の長大な時間軸の中で変動を繰り返すものである。目先の気温の変化に一喜一憂し、いたずらに危機感を煽る態度は、自然に対する傲慢さの表れではないか。我々が持つべきは、気候の変動をも悠然と受け入れ、その中で自然の恵みに感謝し、謙虚に生きていくという、先人たちが育んできた知恵と姿勢である。

真の「花見」を取り戻すために

満開の桜は、今年も我々に美しい姿を見せてくれる。この国の安寧と平和のありがたさを噛み締め、桜を育んだ母なる大地と、この美意識を伝えてくれた先人たちに感謝の念を捧げる。それこそが、日本人としての真の花見の姿であろう。

桜を愛でる心があるならば、その場を汚すことなく、周囲に配慮し、静かにその美しさを味わう品格を持つべきだ。この春、満開の桜の下で、我々一人ひとりが日本人としての誇りと節度を胸に刻むことを切に願う。

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