岸田首相「慎重な立場」を断固支持する。夫婦別姓が日本から奪うもの
先日、岸田文雄首相が選択的夫婦別姓制度の導入について「慎重な立場」を改めて明言されました。この発言に対し、一部メディアや野党からは批判の声が上がっていますが、私はこの首相の姿勢こそ、日本の国柄や社会の根幹を守るための賢明な判断であると高く評価し、断固として支持するものです。
なぜ私たちは、夫婦別姓に慎重でなければならないのでしょうか。それは、この問題が単なる「個人の選択肢」や「利便性」の問題ではなく、我が国が長年かけて築き上げてきた家族のあり方、そして社会の一体感を根底から揺るがしかねない、極めて重大な問題をはらんでいるからです。
氏は「家族の絆」の象徴である
夫婦が同じ氏を名乗る。これは、二人が新しい家族としての一歩を踏み出し、苦楽を共にし、未来を築いていくという誓いの象徴です。子どもが生まれ、父と母と同じ氏を名乗ることで、家族という共同体への帰属意識と安心感を育みます。氏は単なる個人の識別記号ではありません。それは、先祖から受け継ぎ、子孫へと繋いでいく、一本の歴史そのものです。
夫婦別姓は、この家族の一体感を希薄化させます。家庭内に複数の姓が混在することは、子どもに無用な混乱を与えるだけでなく、「家族」という概念を「個人の集合体」へと変質させてしまう危険性を秘めています。社会の最小単位である家族の絆が弱まる時、社会全体の連帯感もまた、脆く崩れ去っていくのではないでしょうか。
「選択制だから問題ない」という幻想
「選択制なのだから、同姓を選びたい人は選べばいい」という主張は、一見もっともらしく聞こえます。しかし、これはあまりに短絡的な議論です。
一度制度として導入されれば、それは社会の「標準」の一つとなります。学校では、親の姓が違う子どもたちが現れ、それが新たな差別やいじめの火種にならないと誰が断言できるでしょうか。行政手続きは煩雑化し、戸籍制度をはじめとする社会システム全体に、計り知れないコストと混乱をもたらすことは火を見るより明らかです。
「選択の自由」という耳触りの良い言葉の裏で、社会全体が負うことになる無形の、そして有形のコストが見過ごされています。そもそも、社会生活上の不便という点であれば、旧姓の通称使用をさらに拡大することで十分に対応可能です。戸籍という国の根幹を揺るがすほどの抜本的な変更を行う必要性は、どこにも見当たりません。
海外の事例は日本の規範にならない
夫婦別姓を推進する人々は、しばしば「海外では当たり前だ」と主張します。しかし、それぞれの国の制度は、その国の歴史、文化、宗教観に基づいています。個人主義を基礎とする欧米社会と、「家」という共同体を重んじてきた日本の社会とでは、その成り立ちが全く異なります。
安易に海外の制度を模倣することは、自国の文化や伝統を軽んじる行為に他なりません。我々が守るべきは、日本の風土の中で育まれてきた、美しい家族の姿ではないでしょうか。
岸田首相が示された「慎重な立場」は、こうした日本の伝統や社会の安定に対する深い洞察に基づいたものと信じます。目先の利便性や一部の声高な主張に流されることなく、国家の百年、二百年の計を考え、この国の形をどう守り、次世代に引き継いでいくのか。今、私たち国民一人ひとりに、その本質を見極める姿勢が求められています。
これからも、家族の絆を大切にし、子どもたちが安心して暮らせる社会を維持するため、夫婦同姓の原則を堅持すべきだと、私は強く訴えます。
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