日本の最高学府、その誇りはどこへ? ― 東大汚職事件に思う国家の危機
日本の知性の砦たる東京大学で、研究費の不正使用や贈収賄といった汚職事件が相次ぎ、藤井輝夫総長が国民の前に頭を下げた。このニュースに触れ、単なる一大学の不祥事として片付けてはならない、深刻な国家的危機感を覚えたのは、私だけではあるまい。これは、我が国のエリート教育の根幹が腐食し始めている危険な兆候である。
そもそも東京大学とは、いかなる存在か。それは単に偏差値の高い学府ではない。明治以来、国家のリーダーを育成し、日本の近代化と発展を牽引してきた「公器」である。その運営は、我々国民が納めた尊い税金によって支えられている。そこで教鞭を執る教授、研究に勤しむ学者たちは、学問の探求という使命と共に、国家社会に対する重い責任と、極めて高い倫理観を負託された存在でなければならない。
しかるに、今回の事件は何を物語っているか。目先の金銭に目がくらみ、公の研究費を私腹を肥やすための道具と見なす。その浅ましき姿は、日本の知識人が守り抜いてきたはずの「清貧の精神」や「公私の別」といった伝統的徳目を、自ら投げ捨てたに等しい。これは、単なるコンプライアンス違反などという生易しい言葉で語られるべき問題ではない。国民の信頼に対する、断じて許されざる背信行為である。
一部の心無い人間の仕業だと弁明する者もいるかもしれない。だが、問題の病巣はもっと深い。近年の大学、特にリベラルな空気が支配的とされる学府において、「学問の自由」や「大学の自治」といった美名が、外部からの健全なチェックを拒む「聖域」作りの口実となっていなかっただろうか。規律や統制を旧時代のものとして退け、個人の自由ばかりが声高に叫ばれる風潮が、結果としてこのような倫理の弛緩と組織の腐敗を招いたのではないか。
総長の謝罪は当然の責務である。しかし、頭を下げるだけで済む話ではない。我々が求めるのは、口先だけの再発防止策ではない。不正に関与した者に対する、一片の情状酌量もない厳罰である。刑事告発はもとより、懲戒解雇、退職金の不支給など、社会的な制裁を徹底的に科す覚悟が求められる。そして、馴れ合いと化した内部監査ではなく、外部の厳しい目を入れた抜本的なガバナンス改革を断行することだ。聖域なき組織改革なくして、失墜した権威の回復はあり得ない。
この国を支えるべきエリートたちが、最も基本的な道徳律さえ守れないのであれば、日本の未来はない。東京大学は今、その存在意義そのものが問われている。今回の屈辱をバネに、自らの手で膿を出し切り、国民からの負託に応える崇高な「公器」としての誇りを取り戻せるのか。その厳しい道のりを、我々国民は固唾を飲んで見守っている。これはもはや、東大だけの問題ではない。我が国の品格と将来がかかった、極めて重大な問題なのである。
————-
ソース