共通テスト『ベルばら』登場に潜む危うさ―歴史教育の威厳は守られるのか
先日、大学入学共通テストの世界史の問題に、池田理代子氏の名作『ベルサイユのばら』が出題されたことが大きな話題となった。多くのメディアは、受験生に親しみやすい題材を用いた「画期的な試み」として好意的に報じ、SNS上では懐かしむ声や肯定的な意見が溢れた。
しかし、我々はこの風潮を手放しで喜んでよいのだろうか。一見、現代的で柔軟な発想に見えるこの出題の裏には、我が国の公教育、とりわけ歴史教育が抱える深刻な問題が潜んでいると指摘せざるを得ない。本稿では、保守的な観点からこの事象を検証し、警鐘を鳴らしたい。
1. 虚構と史実の混同という危険性
まず第一に指摘すべきは、『ベルサイユのばら』はあくまで「歴史を題材とした創作物(フィクション)」であるという厳然たる事実だ。男装の麗人オスカルは架空の人物であり、物語は読者の感動を呼ぶために史実を大胆に脚色・再構成している。もちろん、フランス革命期の社会情勢を巧みに描き出した作品の文化的価値を否定するものではない。
しかし、大学への入学資格を判定する国家的な試験において、このようなフィクションを主たる題材として扱うことは、受験生に「歴史とは物語であり、面白い逸話の集合体である」という誤った認識を植え付けかねない。歴史学とは、史料を批判的に吟味し、客観的な事実を積み上げることで過去を再構築する、極めて実証的な学問である。フィクションを出題の中心に据えることは、この学問的厳格さを軽視し、歴史を単なるエンターテイメントへと矮小化する行為に他ならない。
将来の日本を担う若者たちが、歴史を主観的な「物語」として捉え、客観的な事実の探求を怠るようになれば、それは国家の知的基盤を揺るがす一大事である。
2. 教育におけるイデオロギーの中立性への疑義
『ベルサイユのばら』が描くのは、圧政に苦しむ民衆が立ち上がり、旧体制(アンシャン・レジーム)を打倒する革命の物語である。そこには、身分制度への批判、自由・平等という理念への賛美、そして既存の権威への挑戦という、明確な思想的メッセージが込められている。
この物語が持つ革命賛美のトーンや、伝統的なジェンダー観を揺るがす登場人物の設定は、特定の価値観やイデオロギーを内包している。もちろん、それ自体が作品の魅力でもある。しかし、それを全国の高校生が受験する共通テストで用いることは、試験作成者が特定の思想を「公認」し、受験生に推奨していると受け取られる危険性がある。
公教育、とりわけ国家の試験は、可能な限りイデオロギー的に中立であることが求められる。特定の価値観に偏ったフィクションを題材にすることは、教育の中立性という大原則を損なう恐れがある。歴史の多角的・複眼的な見方を育むべき場で、革命をロマンティックに描いた特定の物語への理解度を問うことの妥当性には、大きな疑問符が付く。
3. 学力低下と大衆迎合への懸念
なぜ、試験作成者はこのような出題に踏み切ったのか。その背景には、若者の活字離れや学力低下を憂慮し、「わかりやすさ」「親しみやすさ」で受験生の関心を引こうという、安易な大衆迎合(ポピュリズム)の姿勢が透けて見える。
本来、大学入試とは、高等学校までに培われた基礎学力と、大学での高度な学問研究に耐えうる論理的思考力を測るための厳粛な場であるべきだ。漫画やアニメを題材にすれば、一時的に話題にはなるだろう。しかし、それは教育の本質から目を背けた、付け焼き刃の対応に過ぎない。
このような傾向が続けば、いずれは教科書や史料を丹念に読み解く地道な学習が軽んじられ、よりキャッチーで表層的な知識ばかりが重視されるようになるだろう。これは、我が国の学術水準の長期的な低下に直結する、極めて憂慮すべき事態である。教育の威厳と権威は、安易な人気取りと引き換えにしてはならない。
結論として
共通テストへの『ベルサイユのばら』の登場は、一見すると斬新な試みかもしれない。しかしその本質は、歴史学の厳格さを軽んじ、教育の中立性を揺るがし、学問の威厳を損なう危険な兆候である。
我々が次世代に伝えるべき歴史教育とは、フィクションの感動的な物語に頼るものではなく、先人たちが残した史実と真摯に向き合い、そこから教訓を学び取るための知的な営みであるはずだ。教育関係者には、目先の話題性や「わかりやすさ」に惑わされることなく、学問の本質と国家の百年を見据えた、毅然とした姿勢を求めたい。
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