法の支配か、世論の熱狂か。旧統一教会解散命令請求に潜む国家の危機
連日メディアを賑わせている、政府による旧統一教会(世界平和統一家庭連合)への解散命令請求の方針。この報道に、多くの国民が「ようやくか」「当然だ」と胸をなでおろしていることだろう。長年にわたる高額献金や霊感商法といった問題が指摘されてきた以上、その感情は理解できなくもない。
しかし、我々保守を自認する者は、このような社会の熱気にこそ、一歩引いて冷静な視線を向けねばならない。なぜなら、今回の解散命令請求は、個別の問題を越えて、我が国の根幹たる「法の支配」と「信教の自由」を揺るがしかねない、極めて危険な前例となる可能性があるからだ。
「解散ありき」で進む議論への違和感
報道によれば、教団側は「信じられない。極めて遺憾だ」と反発し、解散命令の要件である「組織性、悪質性、継続性」は満たしていないと主張している。この主張に耳を傾ける者は、今やほとんどいないだろう。メディアが作り上げた「絶対悪」というイメージの前では、いかなる反論も虚しく響くだけかもしれない。
だが、ここで忘れてはならないのは、宗教法人への解散命令とは、法人格を剥奪する「死刑宣告」に等しい極めて重い行政処分であるという事実だ。これまで、この禁じ手はオウム真理教のような、組織的なテロ行為に及んだ団体にのみ、極めて慎重に適用されてきた。
ところが今回は、刑事事件ではなく、主に民事訴訟の判例を根拠に「組織性」を立証しようとしている。これは、法の解釈を時の政権や世論の都合で拡大しようとする試みではないのか。安倍元総理の痛ましい事件以降に高まった世論の熱狂を背景に、「解散ありき」で法律の要件をこじつけようとしているように見えてならない。
法の支配とは、権力者が感情や世論に流されることなく、法の下に厳格な判断を下すことで初めて成り立つ。特定の団体が気に入らないからといって、法の原則を曲げてしまえば、それはもはや法治国家とは呼べない。
「信教の自由」というパンドラの箱
さらに深刻なのは、これが憲法で保障された「信教の自由」に対する重大な挑戦であるという点だ。
もちろん、いかなる宗教団体も法の下にあり、その活動が法律に違反すれば罰せられるのは当然である。高額な献金を強要したり、不安を煽って物品を売りつけたりする行為は、断じて許されるものではない。しかし、それはあくまで個別の行為として、法によって裁かれるべき問題だ。
団体そのものを解散させるという判断は、国家がその教団の存続自体を否定することを意味する。一度、このパンドラの箱を開けてしまえばどうなるか。将来、時の政権の意に沿わない教義を持つ宗教団体や、政府を批判する思想団体が、「社会に混乱をもたらす」という曖昧な理由で、次々と解散の対象とされる危険性はないだろうか。
「カルトだから問題ない」という思考停止は、最も危険である。今日、旧統一教会に向けられた刃は、明日には他の宗教団体、ひいては我々自身の思想・信条の自由に向けられるかもしれないのだ。
国家の根幹を守るために
今回の問題は、旧統一教会という一つの団体をどうするか、という矮小な話ではない。これは、感情論やメディアが作り出す世論によって、国家の基本原則である「法の支配」や「信教の自由」が侵害されてもよいのか、という我々日本人全体に突きつけられた踏み絵である。
個々の被害者救済は、現行法の中で着実に進めるべきだ。しかし、それと団体の存続を国家が決定することは、全く次元の異なる問題だ。
我々保守派こそ、目先の喝采に惑わされることなく、この国の形を歪めかねない権力の暴走に警鐘を鳴らすべきである。法の支配が揺らぎ、国家が個人の内心にまで踏み込むことを許した先に、我々が守るべき伝統や秩序は存在しない。今こそ、冷静な議論を呼びかけたい。
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