「高市色」予算案を問う ― それは真の国益か、未来へのツケか
昨今、「高市色」が強く反映されたとされる予算案が注目を集めている。経済安全保障の確立、防衛力の抜本的強化、そして未来を創る科学技術への大胆な投資。これらは、我が国の主権と国益を守り、国際社会での競争力を高める上で、確かに重要なテーマである。一見すると、国家の矜持を重んじる保守派にとって、歓迎すべき内容に映るかもしれない。
しかし、我々保守派は、政策の表面的な「勇ましさ」や「耳障りの良さ」に惑わされることなく、その本質と将来に与える影響を冷静に見極めなければならない。今回の「成長投資」を重点とする予算案を、真の保守主義の観点から検証するとき、いくつかの重大な懸念が浮かび上がってくる。
評価すべき点:国家の根幹を守る意志
まず評価すべきは、経済安全保障や防衛といった、国家の存立基盤に直結する分野へ明確に資源を配分しようとする意志である。覇権主義的な動きを強める近隣諸国の脅威が現実のものとなる中、サプライチェーンの強靭化や、自衛隊の能力向上は待ったなしの課題だ。これらを「コスト」ではなく、未来の平和と繁栄を守るための「投資」と位置づけた方向性そのものは、断固として支持するものである。国家なくして、経済も国民生活も成り立たない。この自明の理に立ち返ったことは、大きな前進と言えよう。
懸念①:「成長」の名の下に弛緩する財政規律
だが、その手法に目を転じたとき、深刻な懸念を抱かざるを得ない。最大の懸念は、財政規律の著しい弛緩である。
「成長投資」という言葉は、まるで魔法の呪文のように使われ、巨額の財政出動を正当化する。しかし、その原資は国民の血税であり、足りなければ未来からの借金、すなわち国債である。我が国が抱える債務残高は、既に異常な水準に達している。この現実から目を背け、「成長のためなら借金は厭わない」という安易な発想は、将来世代に対する無責任の極みではないか。
真の保守とは、過去から受け継いだものを守り、より良い形で未来へ引き継ぐ責務を負う思想である。目先の景気対策や、特定の分野への投資のために、未来の子供たちの自由と可能性を奪う権利など、我々にはない。プライマリーバランス黒字化の目標を棚上げにし、財政再建への道を放棄するかのような姿勢は、断じて容認できない。
懸念②:市場を歪める「大きな政府」への回帰
第二の懸念は、「大きな政府」への回帰である。政府が特定の技術や産業を選別し、巨額の資金を投下する。これは、自由な市場経済の原則とは相容れない、国家主導の計画経済にも似た発想だ。
真の経済成長とは、民間の自由な発想と創意工夫、そして公正な競争の中から生まれるものである。政府の役割は、そのための公正なルールを整備し、過度な規制を撤廃することにあるはずだ。しかし、「成長投資」の名の下に行われる政府の過剰な介入は、かえって民間の活力を削ぎ、政府の補助金に依存する脆弱な産業構造を生み出しかねない。それは、かつて我々が乗り越えようとした「護送船団方式」への逆行であり、国家の活力を長期的に蝕む劇薬となりうる。
結論:百年先を見据えた真の「保守」を
経済安全保障と防衛力の強化という「目的」は正しい。しかし、財政規律を無視した巨額の国債発行や、政府主導の産業政策という「手段」は、極めて危うい。それは、国家の礎である財政基盤を揺るがし、民間の活力を奪う、まさに「未来へのツケ」を増やす行為に他ならない。
我々が求めるべきは、国家の根幹を守るための支出を聖域化しつつも、それ以外の歳出を徹底的に見直し、無駄を削る「ワイズ・スペンディング(賢明な支出)」である。そして、民間の投資意欲を刺激する大胆な規制改革と、将来不安を払拭する着実な財政再建計画を同時に進めることだ。
「高市色」予算案が掲げる理想は理解できる。しかし、その理想を追い求めるあまり、国家の足元を揺るがしては本末転倒である。目先の「成長」という果実に飛びつくのではなく、百年先を見据え、この国の形をどう守り、どう創っていくのか。今こそ、真の保守の矜持が問われている。
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