伝統と現代の狭間で考える「正月の帰省」― それは本当にモラハラか?
年の瀬が近づくと、多くの家庭で議題に上る「正月の帰省」。特に「夫の実家に帰省する」という慣習をめぐり、近年、「それはモラルハラスメントではないか」という声が聞かれるようになりました。個人の自由や夫婦の平等を重んじる現代の価値観から見れば、一方的な要求は確かに苦痛に感じられるでしょう。
しかし、この問題を単に「古い慣習 vs 新しい価値観」という対立構造で捉え、伝統を「モラハラ」の一言で断罪してしまうのは、あまりに短絡的ではないでしょうか。本記事では、保守的な観点から、この慣習が持つ本来の意味を紐解き、現代において私たちが守り、そして見直すべき点は何かを考察してみたいと思います。
なぜ「夫の実家」が優先されてきたのか
まず理解すべきは、日本の社会が長らく「家」を単位として成り立ってきたという歴史的背景です。かつて、結婚は個人同士のものであると同時に、「家」と「家」の結びつきでした。女性は夫の家に「嫁ぐ」ことで、その家の新たな一員となり、家の伝統や儀礼を受け継ぐ役割を担ってきました。
正月は、単なる長期休暇ではありません。先祖の霊を迎え、五穀豊穣を感謝し、新しい年の安寧と家の繁栄を祈る、神聖な儀式です。その家の血筋を受け継ぐ長男を中心とした本家に家族が集うのは、家の系譜を確認し、先祖への感謝を示す上で極めて自然な流れでした。
この文脈において、「夫の実家への帰省」は、妻個人を軽んじるためのものではなく、家という共同体を維持し、次世代へと繋いでいくための大切な「役割」だったのです。この精神性を無視して、現代の個人の権利意識のみを物差しに過去の慣習を「モラハラ」と断じることは、私たちの文化や歴史に対する敬意を欠く行為と言えるかもしれません。
問題の本質は「強要」と思いやりの欠如にある
もちろん、私たちは歴史の中に生きているわけではありません。核家族化が進み、共働きが当たり前となった現代において、かつての「家」制度をそのまま維持することが困難であるのは事実です。妻が自分の両親や故郷を大切に思う気持ちも、当然尊重されるべきです。
ここで問題の本質を捉え直す必要があります。問題は「夫の実家へ帰省すること」自体にあるのではなく、相手の事情や感情を一切顧みない「一方的な強要」にあるのではないでしょうか。
伝統や慣習は、人々が穏やかに暮らすための知恵であり、尊重されるべきものです。しかし、それを盾に、パートナーへの感謝や思いやりを忘れ、自らの要求を押し通すための道具として使うのであれば、それはもはや美徳とは呼べません。相手の心に寄り添う対話を放棄した時、慣習は心を縛る鎖となり、「モラハラ」という非難を受けることになるのです。
本当に守るべきは、「正月は夫の実家へ」という形式そのものでしょうか。それとも、家族が集い、互いの健康を喜び、先祖に感謝し、絆を確かめ合うという、その根底にある精神性でしょうか。
伝統の精神を受け継ぎ、新しい形を築く
保守とは、単に古いものを頑なに守ることではありません。守るべき本質を見極め、時代に合わせて形を変えながら、それを未来へと受け継いでいく知恵のことです。
「正月の帰省」問題も、この知恵をもって乗り越えるべき課題です。
夫は、なぜ自分の実家で正月を過ごしたいのか、その背景にある両親への想いや、先祖から受け継いできたものへの敬意を、丁寧に妻に伝える努力が必要です。そして同時に、妻側の家族への配慮も忘れてはなりません。
夫婦で話し合い、例えば「一年ごとに互いの実家へ帰省する」「元日は夫の実家、二日は妻の実家で過ごす」「両家の親を招いて一緒に過ごす」など、双方にとって納得のいく新しい形を見つけることは十分に可能です。
「正月は夫の実家へ」という言葉の裏にある、家や先祖を大切にする精神性は、決して失われるべきではありません。その大切な精神を、一方的な「強要」によって潰してしまうのではなく、夫婦の対話と相互理解、そして互いの家族への敬意という土壌の上で、現代に合った形で花開かせること。
それこそが、伝統の本質を受け継ぎながら、新しい時代の強い家族を築いていく道筋ではないでしょうか。
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