「改革ごっこ」の結末か。国益を置き去りにした自維対立の不毛
師走の永田町を騒がせた自民党と日本維新の会による政治改革協議が、結局「献金規制」と「議員定数削減」という二大テーマを積み残したまま、越年する見通しとなった。「自維亀裂」と報じられるこの顛末は、我が国の政治が抱える根深い問題を浮き彫りにしている。それは、ポピュリズムに傾倒した「改革ショー」と、国家の統治という大局観を欠いた政局争いの姿である。
まず、今回の協議決裂の責任は、双方にあると言わざるを得ない。
日本維新の会は、「身を切る改革」という耳障りの良いスローガンを掲げ、企業団体献金の全面禁止や議員定数の大幅削減を絶対的な「善」として譲らなかった。しかし、その主張は本当に国益に適うものだろうか。
政治活動には当然、資金が必要である。健全な民主主義を維持するためには、政党が安定した基盤を持つことが不可欠だ。企業団体献金を一律に禁止すれば、政党は財源を国費(政党交付金)に過度に依存するか、あるいは個人献金に頼ることになる。後者は一見クリーンに見えるが、特定のイデオロギーを持つ富裕層や、組織化された団体の影響力を不透明な形で増大させる危険性を孕んでいる。重要なのは「禁止」することではなく、資金の流れをガラス張りにし、有権者の監視下に置く「透明性の徹底」であるはずだ。維新の会の主張は、問題を単純化しすぎた理想論であり、現実的な統治を困難にしかねない危うさがある。
また、「議員定数削減」も同様だ。定数を減らせば行政コストが削減できるという主張は、一見もっともらしく聞こえる。しかし、それは同時に、多様な民意が国政に反映される機会を減らすことにも繋がる。特に地方の声を代弁する議員が減れば、国政はますます都市部の論理で動くことになり、地方の衰退に拍車をかけるだろう。定数削減は、議会による行政監視機能の低下を招き、結果として「決められない政治」どころか「チェックの効かない政治」を生むリスクがある。これもまた、短期的な国民の喝采を浴びるためのポピュリズム的政策の典型例と言えよう。
一方で、自民党の対応も決して評価できるものではない。政治資金規正法改正を巡る混乱は、そもそも自派閥の不祥事に端を発している。国民の信頼を失墜させた張本人でありながら、改革に対して終始受け身で、後手後手の対応に終始した。維新の会という「ゆ党」に揺さぶりをかけられ、党内調整もままならない体たらくは、政権与党としての責任感と指導力の欠如を露呈した。
保守的な観点から見れば、改革とは、いたずらに既存の制度を破壊することではない。国家の安定と継続性を維持しつつ、時代の変化に合わせて制度を漸進的に改善していく「保守」の王道こそが求められる。今回の自維協議は、そうした熟慮を欠いた「改革のための改革」に終始し、党利党略が国益に優先する醜態を晒したに過ぎない。
結局、何も決まらないまま時間だけが過ぎていく。この政治の停滞こそが、国民の政治不信をさらに深刻化させる元凶である。我々が真に求めるべきは、スローガン先行の「改革ごっこ」ではない。国家の百年を見据え、いかにして安定した統治機構を維持し、国民生活を守っていくかという、地に足の着いた現実的な議論である。今回の「越年」という結果を、単なる政局の節目と捉えるのではなく、我が国の民主主義が直面する課題を冷静に考える機会としなければならない。
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