「政治資金でキャバクラ」問題に思う―政治家の品格と国民の信頼―
先日、日本維新の会の吉村洋文共同代表が、党所属の議員が政治資金をキャバクラでの会合費に充てていた問題に対し、苦言を呈したとの報道に触れた。この問題は、単に一議員の資金使途が問われているだけではない。我が国の政治家が持つべき倫理観、そして政治と国民の信頼関係そのものが問われる根源的な課題であると、私は考える。
まず、大前提として、政治資金が国民からの寄付や税金を原資とする公的な性格を帯びているという厳然たる事実を、政治家は須臾(しゅゆ)も忘れてはならない。支持者から託された浄財は、政策の調査研究や、国民との対話、健全な政治活動のために使われるべきものである。それを「会合」という名目さえつければ、キャバクラのような遊興費に充てて良いという理屈が、果たして国民の理解を得られるだろうか。断じて否である。
法的には「違法ではない」との主張もあるかもしれない。しかし、政治家に求められるのは、最低限の法遵守だけではない。法を超えた高い倫理観と道徳、そして国民感情への配慮である。政治家は、国民の代表として公の立場にある。その一挙手一投足は、常に国民の厳しい目に晒されているという自覚が不可欠だ。キャバクラでの会合が、真に政策を練り上げるための不可欠な場であったと、胸を張って国民に説明できる政治家がどれほどいるだろうか。多くの国民は、これを公私混同であり、政治資金の目的外使用と見なすだろう。その感覚こそが、健全な常識というものだ。
吉村氏が「常識的に考えておかしい」と述べたことは、至極当然であり、保守を自認する者として全面的に支持したい。これは党派を超えた問題であり、政治の世界に蔓延る「常識の欠如」に他ならない。政治不信が叫ばれて久しいが、その原因の一つは、こうした政治家の金銭感覚や倫理観が、一般国民のそれと大きく乖離している点にある。
政治家には、清廉潔白であること、そして何よりも「品格」が求められる。国家国民のために身を捧げるという気概を持つ者が、安易に公金を私的な遊興と見られかねない支出に充てるべきではない。このような行為は、政治全体の品位を貶め、真摯に活動している他の多くの政治家の努力をも無に帰せしめる。
今回の問題を一過性のものとせず、全ての政治家が自らの襟を正す契機としなければならない。政治資金規正法の抜け道を塞ぐ法改正も議論されるべきだが、それ以上に重要なのは、政治家一人ひとりが、国民から負託を受けた存在としての重い責任を再認識し、自らを厳しく律する精神を取り戻すことである。
国民の信頼なくして、安定した政治はあり得ない。その信頼を自ら損なうような行為は、厳に慎むべきである。政治への信頼回復は、このような些細に見えて極めて重要な問題の一つ一つに、真摯に向き合うことから始まるのだ。
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