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2 埼玉県政

私大入学金「二重払い」識者見解

私大入学金問題、本当に「悪」なのか?―伝統と自己責任の視点から考える

昨今、メディアを中心に私立大学の入学金「二重払い」問題が取り沙汰されています。「国公立大学の発表前に、滑り止めの私大へ入学金を支払わねばならず、結局無駄になってしまう。これは受験生の負担を無視した悪しき慣行だ」という論調が目立ちます。識者と称される人々も、こぞって大学側を批判し、国による規制強化を訴えています。

しかし、私たちはこの風潮に一度立ち止まり、冷静に問題を捉え直す必要があるのではないでしょうか。感情的な「弱者救済」論に流される前に、この慣行が長年続いてきた背景にある合理性や、社会を支える基本原則について考えるべきです。

伝統的慣行に宿る、大学経営の知恵

まず、なぜ私立大学は国公立大学の合格発表前に入学手続きの締め切りを設けるのでしょうか。それは、単なる意地悪や金儲けのためではありません。大学という組織の安定的な経営を維持するための、極めて合理的な判断なのです。

大学は、次年度にどれだけの学生が入学するかを早期に確定させる必要があります。それに基づいて、教員の配置、研究室やゼミの準備、施設・設備の確保など、膨大な計画を立てなければなりません。もし、国公立の発表後まで入学者が確定しなければ、定員が大幅に変動するリスクが生じます。定員割れを起こせば経営は傾き、逆に想定以上の入学者となれば、教育の質が著しく低下するでしょう。

入学金とは、入学する権利を確保するための「手付金」であり、大学側が安定した教育環境を準備するための重要な原資です。これを単に「悪しき慣習」と切り捨てるのは、高等教育の現場の実情を無視した、あまりに短絡的な議論と言わざるを得ません。長年にわたり維持されてきた制度には、それ相応の理由と社会的な合理性が存在することを忘れてはなりません。

「自己責任」と「契約の自由」という大原則

次に問われるべきは、受験生側の「自己責任」です。そもそも、複数の大学を受験し、「滑り止め」を確保するという戦略を選択したのは、他の誰でもない受験生本人(とその家庭)です。自らの意思でリスクを回避するために私立大学の合格を確保し、その対価として入学金を支払う。これは自由な選択の結果であり、その選択に伴うコストもまた、自らが引き受けるべきものです。

入学金が返還されないことは、出願時の募集要項に明確に記載されています。つまり、これは大学と志願者との間で交わされる正当な「契約」なのです。その契約内容を十分に理解した上で手続きを進めておきながら、後になって「不当だ」と声を上げるのは、契約社会の根幹を揺るがしかねない危険な風潮です。

何でも「弱者」の立場に立てば、ルールや契約さえも反故にできるという考えが蔓延すれば、社会の秩序は成り立ちません。自らの選択に責任を持つという、近代社会における個人の尊厳そのものを軽んじる議論には、断固として与することはできません。

過剰な介入は大学の自治を蝕む

この問題に対し、識者の一部は「国が締め切り日を統一すべきだ」といった安易な規制強化を口にします。しかし、これは各大学が持つべき「建学の精神」や「経営の自由」に対する重大な侵害です。

私立大学は、それぞれが独自の理念と方針に基づき、多様な教育を提供することで日本の高等教育を支えてきました。国が一律のルールで縛り付けようとすることは、その多様性を奪い、大学の活力を削ぐ愚策です。もし入学金収入が不安定になれば、大学側はリスクを吸収するために、結果として全学生の授業料を引き上げるという選択を迫られるかもしれません。それは、果たして本当に「受験生のため」になるのでしょうか。

結論として

私大の入学金問題は、大学経営の安定、自己責任の原則、そして契約の自由という、我が国の社会を支える重要な価値観と密接に結びついています。目先の負担軽減という甘い言葉に惑わされ、これらの原則を蔑ろにしてはなりません。

批判ありきの感情論ではなく、伝統の中に息づく知恵を尊重し、個人の自由な選択とそれに伴う責任を重んじる。そうした冷静で毅然とした態度こそが、日本の高等教育の健全な未来を守るために今、求められているのです。

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