「共同親権」導入で本当に子の幸せは守られるのか?―新制度に潜む懸念と日本の家族観
先日、離婚後の「共同親権」を導入する改正民法が成立しました。離婚後も父母双方が親権を持つことができるようになるこの制度は、「子の利益」を最大化するための改革であると説明されています。しかし、私たちはこの大きな制度変更を、手放しで歓迎してよいのでしょうか。長年日本の社会を支えてきた家族のあり方を踏まえ、保守的な観点からこの新制度に潜む懸念を検証します。
理念と現実の乖離―「争った親」に協力は可能なのか
共同親権の理念は「離婚後も父母が協力して子育てに関わる」という、一見すると美しいものです。しかし、そもそも価値観の対立や埋めがたい溝によって離婚という最終手段を選んだ元夫婦が、子の進学、医療、居住地の決定といった重要事項について、冷静に、そして円滑に合意形成できると考えるのは、あまりに楽観的ではないでしょうか。
意見が対立するたびに家庭裁判所に判断を仰ぐことになれば、そのプロセスで子どもは両親の争いを目の当たりにし続けます。終わりのない対立は、子どもの心に深い傷を残し、精神的な安定を著しく損なうでしょう。これは、制度が目指すはずの「子の利益」とは、まったく逆の結果を招きかねません。
安定した環境で子どもを育てるためには、監護の中心となる親が責任と権限を持って判断できる仕組みが必要です。これまでの単独親権制度は、離婚後の無用な混乱を避け、子どもに安定した生活基盤を提供するという点で、日本の実情に適した知恵であったと言えるのではないでしょうか。
DV・虐待からの避難を妨げる「足枷」とならないか
最も深刻な懸念は、共同親権がDV(ドメスティック・バイオレンス)や虐待の加害者による「支配の継続」を許す道具となりかねない点です。
改正法では、DVや虐待のおそれがある場合は単独親権が認められるとされています。しかし、暴力の立証、とりわけ巧妙に隠された精神的DVの存在を、裁判所がすべて的確に認定できる保証はどこにもありません。
もし共同親権が認められれば、被害者である親と子は、加害者から逃れて新しい生活を始めることが極めて困難になります。面会交流や重要事項の決定を盾に、加害者が被害者と接触し続け、精神的な圧迫を加えることが可能になってしまうのです。これは、被害親子を生涯にわたって加害者の支配下に縛り付ける「足枷」に他なりません。
家庭は、本来子どもにとって最も安全な場所であるべきです。その安全を脅かすリスクを内包した制度を、「子の利益」の名の下に導入することは、本末転倒と言わざるを得ません。
日本の家族観と社会秩序への影響
欧米の制度を安易に日本に持ち込むことにも、私たちは慎重であるべきです。日本社会は、欧米とは異なる歴史と文化の中で、独自の家族観を育んできました。離婚後も、主たる監護者(多くは母親)が中心となって子どもを育てるという形は、社会の安定に寄与してきた側面があります。
共同親権は、離婚によって一度は区切りをつけたはずの人間関係を、法的に継続させる制度です。これは、当事者が過去を乗り越え、新たな人生のステップを踏み出すことを妨げます。結果として、いつまでも紛争の火種がくすぶり続け、社会全体の不安定化につながるおそれすらあります。
本当に「子の利益」を考えるのであれば、まず取り組むべきは、離婚後も養育費が確実に支払われる仕組みの強化や、ひとり親家庭への経済的・社会的支援の拡充ではないでしょうか。争いを助長しかねない制度の導入よりも、子どもが経済的に困窮せず、安定した生活を送れるための現実的な支援こそが急務です。
結論:拙速な理想論より、現実的な子の福祉を
「離婚後も両親で」という理想論は聞こえが良いかもしれません。しかし、その理想が、かえって子どもを終わりのない争いに巻き込み、DV被害者を苦しめる現実を生み出すとしたら、それは「子の利益」に反するものです。
共同親権の導入は、日本の家族のあり方を根底から揺るがしかねない重大な変更です。この制度がもたらすであろう混乱や不幸を直視し、私たちはもっと慎重な議論を重ねるべきでした。今後の運用においては、裁判所が個々の事情を極めて慎重に審理し、安易に共同親権を認めることがないよう、強く釘を刺しておきたいと思います。家庭の安寧と社会の秩序を守り、真に子どもの幸福を追求する道は、理想論の追求ではなく、現実を見据えた堅実な一歩の中にあるはずです。
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