「ぶつかり男」に正義の鉄槌?―法と秩序を忘れた安易な自己防衛論に物申す
昨今、駅のホームや雑踏で故意に他人にぶつかる「ぶつかり男」なる存在が、社会問題として取り沙汰されている。理不尽な暴力に憤りを覚えるのは当然であり、ネット上では「やられたらやり返せ」「受け止めてやればいい」といった威勢の良い言説も散見される。先日目にした記事「ぶつかり行為受け止める 法的問題」は、こうした風潮に対し、法的な観点から警鐘を鳴らすものであった。
この記事が指摘するように、故意のぶつかり行為に対し、敢えて体を開かず「受け止める」行為は、正当防衛と認められず、かえって傷害罪に問われる危険性を孕んでいる。まさにその通りであり、法治国家に生きる我々が、決して忘れてはならない原則である。本稿では、この記事の指摘を踏まえ、さらに一歩踏み込み、保守的な観点からこの問題の本質を論じたい。
「自力救済」の誘惑が、社会の根幹を蝕む
まず、明確に断じなければならない。いかなる理由があろうとも、意図的に他人に危害を加えようとする「ぶつかり行為」は、社会の秩序を乱す唾棄すべき蛮行である。公共の場における信頼と安心を根底から破壊する行為であり、断じて許されるものではない。
しかし、その蛮行に対し、個人が「力」をもって対抗することを是とする風潮は、それ以上に危険な兆候と言わざるを得ない。法による裁きを待たず、個人の判断で「正義」を執行する、いわゆる「自力救済」は、文明社会が長い年月をかけて乗り越えてきたはずの、野蛮な状態への回帰に他ならないからだ。
一時の溜飲を下げるために相手を「受け止め」、結果として相手が転倒・負傷した場合、その責任は誰が負うのか。法は、感情ではなく、客観的な事実に基づいて判断する。たとえ相手に非があったとしても、こちらの行為が「防衛の程度を超えた」と見なされれば、刑事罰や損害賠償の対象となる。それは、法治国家としての当然の帰結である。安易な実力行使は、自らの正当性をも失わせ、結果として自分自身を窮地に追い込む愚行なのである。
日本人の美徳はどこへ行ったのか
かつて、我々日本人には「君子危うきに近寄らず」という処世の知恵があったはずだ。愚かな者の挑発に乗り、同じ土俵に立つことは、自らの品位を下げる行為だと戒めてきたのではなかったか。
目の前の理不尽に対し、怒りの感情に任せて反射的に行動するのではなく、まずは冷静に状況を判断し、危険を回避する。警察に通報する、駅員に助けを求めるなど、公的な救済手段に委ねる。あるいは、侮蔑の念とともに、ただ受け流す。そうした冷静沈着な対応こそが、人格の高潔さを示すものであり、日本人が古来培ってきた精神的な強さではなかっただろうか。
「やられたらやり返す」という短絡的な思考は、権利意識ばかりが肥大化した現代の悪しき風潮の表れではないか。社会全体の調和よりも個人の感情を優先する態度は、我々が守り伝えてきた共同体の秩序を内側から崩していく。
真の「自己防衛」とは何か
結論として、我々は「ぶつかり男」という理不尽な存在に対し、断固として、しかし冷静に対処せねばならない。その対処法とは、決して腕力や体格で対抗することではない。
第一に、法と秩序を信頼すること。個人の裁きではなく、警察や司法という国家の機能に解決を委ねる姿勢を堅持することである。
第二に、自らの品位を保つこと。相手の土俵に乗らず、冷静に危険を回避する賢明さを持つことである。
目先の正義感に駆られた安易な行動が、自らの人生を狂わせ、ひいては社会の秩序を損なうことに繋がりかねない。理不尽がまかり通る世の中であっても、我々は法を遵守し、道義を重んじる姿勢を失ってはならない。それこそが、この国に生きる者としての矜持であり、真の自己防衛なのである。
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