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2 埼玉県政

大川原冤罪 捜査員らに負担請求

大川原冤罪事件と捜査員への求償請求―現場の萎縮を招かぬ制度設計を

「大川原化工機」をめぐる冤罪事件で、国と東京都が遺族らに賠償金を支払ったことを受け、都が当時の捜査員らに対し、賠償金の一部の負担を求める訴えを起こした。このニュースは、司法の過ちがいかに深刻な結果を招くかを改めて浮き彫りにすると同時に、我々に重い問いを突きつけている。

すなわち、国家の治安維持を担う警察官や検察官の「失敗」に対し、我々はどのように向き合うべきか、という問いだ。

正義の追求と当然の帰結

まず大前提として、この冤罪事件は断じて許されるものではない。一人の経営者が命を落とし、企業の信用は地に堕ち、従業員の人生も大きく狂わされた。その責任が捜査機関にあることは司法の判断で確定している。

その上で、都が捜査員個人に賠償負担を求めることは、地方自治法に基づく手続きとして、一見すれば当然の帰結と言えるだろう。税金で賄われる賠償金である以上、原因を作った者に責任を問うのは、行政の健全性、そして納税者に対する説明責任の観点からも理解できる。悪意や重過失があったと認定されたのであれば、その責任を個人が負うこと自体は、法の原則に適っている。

しかし、懸念される「現場の萎縮」

一方で、この訴訟がもたらすであろう「負の側面」から目を背けてはならない。それは、治安維持の最前線に立つ捜査員の「萎縮」である。

警察官や検察官の仕事は、常に困難な判断の連続だ。白か黒か判然としない灰色の領域で、限られた情報と時間の中で、被疑者を追いつめ、犯罪を立証するという極めて重い職責を担っている。その過程で、時に踏み込んだ捜査や厳しい追及が必要となる場面は少なくない。

もちろん、違法な取り調べや証拠の捏造は論外である。しかし、今回の訴訟が「結果として冤罪になった場合、捜査員は巨額の賠償責任を個人的に負わされるリスクがある」という前例を作ってしまえば、現場に与える影響は計り知れない。

本来であれば、果敢に悪に立ち向かうべき捜査員が、「万が一、無罪になったら…」という恐れから、困難な事件への着手をためらったり、被疑者に対する追及が及び腰になったりする可能性はないだろうか。治安維持という国民全体の利益が、個人の責任追及という正義の実現の過程で損なわれるという、本末転倒な事態を招きかねないのだ。

個人の責任か、組織・制度の問題か

この事件を、単に「一部の捜査員の暴走」として片付けてしまうことにも慎重でなければならない。なぜ、このような杜撰な捜査が見過ごされ、起訴に至ってしまったのか。

そこには、個人の資質の問題だけでなく、組織としてのチェック機能の不全、科学的知見の軽視、あるいは「起訴すれば有罪」という長年の慣行がもたらした歪みなど、構造的な問題が潜んでいるのではないか。

捜査員個人に金銭的な責任を負わせることで幕引きを図るのではなく、組織全体としてこの事件を重く受け止め、なぜ冤罪を防げなかったのかを徹底的に検証し、再発防止のための制度改革に繋げることこそが、本質的な解決策であるはずだ。例えば、専門性の高い事件に対する第三者機関のチェックや、検察内部でのより厳格な起訴基準の適用などが考えられるだろう。

求められるは、バランスの取れた国家の姿勢

国民の生命と財産を守るという国家の責務は、治安維持機関の強力な活動なくしては成り立たない。同時に、国家権力がいかに個人の人権を蹂躙しうるかという教訓を、我々はこの事件から学ばなければならない。

今回の求償請求は、一つの正義の形かもしれない。しかし、それが治安の最前線を過度に萎縮させ、結果として国民益を損なうことのないよう、熟慮が求められる。

個人の重大な過失には厳正に対処しつつも、あくまで主眼は組織としての再発防止と制度改革に置くべきだ。捜査員が不当なプレッシャーを感じることなく、正義感と使命感を持って職務に邁進できる環境を維持すること。それこそが、巡り巡って我々国民一人ひとりの安全と平穏な暮らしを守ることに繋がるのである。この二つの要請をいかに両立させるか、国家の叡智が問われている。

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