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2 埼玉県政

豆で4歳死亡も 節分で思わぬ事故

節分の豆は「危険物」か?家庭の責任と伝統文化の危機

節分の季節が近づくと、毎年決まって耳にする痛ましいニュースがあります。それは、小さなお子さんが豆を喉に詰まらせてしまう窒息事故の話題です。過去には4歳のお子さんが亡くなるという、あまりにも悲しい出来事もありました。

まず何よりも、亡くなられたお子さんのご冥福を心よりお祈りするとともに、ご遺族の皆様に深く哀悼の意を表します。二度とこのような悲劇が繰り返されてはならないことは、論を待ちません。

しかし、この悲劇を前にして、我々が取るべき態度は本当に「豆は危ないから子どもに与えるのはやめよう」「豆まきという文化自体を見直そう」という短絡的な思考停止で良いのでしょうか。私は、この風潮に強い懸念を抱きます。これは、日本の伝統と家庭のあり方が問われている、根深い問題だと考えるからです。

責任の所在をすり替えてはならない

消費者庁は「5歳以下の子どもには硬い豆やナッツ類を与えないで」と注意喚起しています。この呼びかけ自体は、科学的知見に基づいた正しいものであり、尊重されるべきです。子どもの咀嚼・嚥下能力は未発達であり、保護者はそのことを十分に理解しておく必要があります。

問題は、この種の事故が起こるたびに、「社会が悪い」「メーカーの表示が不十分だ」「行政の注意喚起が足りない」といった、責任を外部に求める声が大きくなることです。しかし、家庭内での子どもの安全を守る第一義的な責任は、どこにあるのでしょうか。言うまでもなく、親、保護者にあります。

我が子がどの程度食べ物を噛み砕けるのか、食事中に走り回ったり騒いだりする癖はないか、そうした一番身近なリスクを管理できるのは親だけです。節分の豆が危険なのではありません。子どもの発達段階を無視して、目を離した隙に与えてしまう状況こそが危険なのです。これを「豆のせい」にしてしまうのは、あまりにも本末転倒な議論です。

「ゼロリスク信仰」が日本の伝統を蝕む

この問題の根底には、現代社会に蔓延する「ゼロリスク信仰」があります。公園からは次々と遊具が消え、学校の運動会からは騎馬戦や組体操が姿を消していく。わずかでも危険性があれば、それを徹底的に排除しようという潔癖主義が、社会全体を覆っています。

しかし、リスクなき社会などあり得ません。子どもは、小さな失敗や怪我を繰り返しながら、何が危険で、どうすればそれを回避できるのかを学んでいくものです。あらゆる危険を大人が先回りして取り除いてしまえば、子どもは危険を察知する能力も、それに対処する力も養うことができません。

節分の豆も同じです。危険だからと最初から遠ざけるのではなく、「これは硬いから、よく噛んで食べるんだよ」「のどに詰まると大変だから、座って食べようね」と教えることこそが、真の教育ではないでしょうか。年の数だけ豆を食べるという風習も、たくさん食べ過ぎないようにという古人の知恵が込められています。危険を排除するのではなく、危険と賢く付き合う方法を教える。それこそが、家庭が果たすべき役割です。

伝統文化の継承という使命

節分は、単に豆をまいて楽しむイベントではありません。季節の分かれ目に邪気を払い、一年間の無病息災を願う、古来より受け継がれてきた日本の大切な伝統文化です。家族が集い、「鬼は外、福は内」と声を合わせることで、家族の絆を深め、子どもたちは目に見えないものへの畏敬の念を学びます。

たった一つの悲しい事故を針小棒大に取り上げ、文化そのものを危険視する風潮が続けば、やがてこの素晴らしい伝統は形骸化し、消えていってしまうでしょう。餅つきの餅でのどを詰まらせる高齢者がいるから、餅つきをやめますか。初詣の雑踏で事故が起こる可能性があるから、神社への参拝をやめますか。そんなはずはありません。

我々が今、向き合うべきは、節分の豆を「危険物」として社会から隔離することではありません。むしろ、この悲劇を教訓とし、家庭の教育力と親の責任感を再確認することです。どうすれば安全にこの素晴らしい文化を子どもたちに伝えていけるのか。砕いて与える、小袋のまままく、あるいは幼児向けのお菓子で代用するなど、工夫の余地はいくらでもあります。

伝統とは、先人たちの知恵の結晶です。それを安易に捨て去るのではなく、現代の知識と融合させながら、賢く、そして力強く次世代へと受け継いでいく。それこそが、今を生きる我々の使命であると、私は信じてやみません。今年の節分が、改めて家庭のあり方と日本の文化について考える、良き機会となることを願います。

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