デジタル改革で八潮を豊かに

2 埼玉県政

私立大学 半数以上が赤字に転落

「学問の府」の崩壊か、健全化の序章か。私大赤字問題に潜む日本の病理

「私立大学の半数以上が赤字に転落」―。先日報じられたこの衝撃的なニュースを、皆さんはどう受け止めただろうか。単なる一企業の経営不振として片付けてはならない。これは、戦後日本の高等教育が抱える構造的な病理が、いよいよ末期症状を呈し始めたことを示す、国家的な警鐘である。

この問題を前にして、「少子化だから仕方ない」「物価高が原因だ」といった表面的な分析や、「教育の機会を守るため、国は補助金で救うべきだ」などという甘い言葉に耳を貸してはならない。我々保守派は、この危機を直視し、国家百年の計を見据えた骨太の議論を始めなければならない。

責任の所在を曖昧にするな ― まずは自助努力を問う

第一に問われるべきは、大学経営者の当事者意識の欠如である。少子化は、昨日今日始まった話ではない。何十年も前から分かりきっていた人口動態の変化に対し、彼らは一体どのような手を打ってきたというのか。

学生集めに汲々とするあまり、教育の理念を忘れ、安易な入試制度の導入や、実態の伴わない「グローバル」「キャリア」といった看板の乱立に走ってはこなかったか。学生を「お客様」扱いし、厳しい鍛錬を課すことを怠り、卒業という名の「製品保証」の質を自ら貶めてきたのではないか。

市場から選ばれなくなったのは、そもそも提供する「教育」という商品に魅力がなくなったからに他ならない。経営難に陥るたびに、安易に国へ補助金をねだるその体質は、自己改革の機会を放棄する怠慢であり、国民への背信行為である。税金は、努力を怠った組織を延命させるためのものではない。まずは自らの血を流す覚悟で、教育内容の見直し、非効率な組織体制の刷新、そして時には統廃合という痛みを伴う決断を下すべきである。それが、独立した教育機関としての矜持であり、責任の取り方であろう。

「大学」の美名に隠された聖域を許すな ― 国の役割は「選択と集中」

もちろん、すべての大学を市場原理の荒波に晒せばよい、という単純な話ではない。大学は、単なる職業訓練校ではない。目先の利益には繋がらずとも、国の知的基盤を支える基礎研究や、国家の精神的支柱となるべき人文科学の叡智を守り育てる「学問の府」としての尊い使命を担っている。

だからこそ、国の役割が重要になる。だが、その役割とは、質の低い大学まで含めて一律に保護する「ばらまき」であっては断じてならない。それは、真に価値ある研究や教育を行う大学のリソースを奪い、結果として国全体の知的水準を低下させる愚策である。

今、国に求められるのは、国家戦略に基づいた非情なる「選択と集中」だ。世界と伍していける研究拠点、国家の未来を担う人材を育成する気概のある大学を厳しく見極め、そこに資源を重点的に投下する。逆に、レジャーランドと化した大学や、存在意義の疑わしい教育しか提供できない大学からは、断固として手を引くべきである。その峻別こそが、限られた国富を有効に活用し、日本の未来への投資を最大化する道である。

「機会の平等」という幻想からの脱却

こうした議論をはじめると、必ずや「教育の機会均等を損なう」といった批判が聞こえてくる。しかし、それは詭弁である。質の低い大学で4年間を過ごさせることが、果たして若者のためになるのか。高い学費を払わせた挙句、社会で通用しない人材を世に送り出すことは、むしろ若者から貴重な時間と可能性を奪う「機会の収奪」に他ならない。

真の機会の平等とは、意欲と能力のある若者が、家庭の経済状況にかかわらず、質の高い教育を受けられる環境を保障することだ。それは、大学の数を維持することと決して同義ではない。むしろ、淘汰が進み、精鋭化された質の高い大学が、真に学ぶ意志のある学生を、給付型奨学金の拡充などを通じて広く受け入れる体制を築くことこそが、本質的な教育機会の平等に繋がるのである。

終わりに

私大の大量赤字は、戦後教育の歪みが噴出した膿である。この膿を出し切る覚悟が、今の日本にあるかどうかが問われている。

各大学は、安易な救済に期待するのではなく、建学の精神に立ち返り、自らの存在意義を国民に問うべきだ。そして国は、情実や総花的配分を排し、国家の未来を見据えた冷徹な判断を下さなければならない。

この痛みを伴う改革は、日本の知的基盤を再構築し、次世代を担う真のエリートを育成するための、避けては通れない道である。我々は、この危機を「大学の健全化」に向けた好機と捉え、議論を前に進めなければならない。

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