国スポ「通年開催」の功罪を問う―失われる一体感と地域の熱気
国民スポーツ大会(国スポ)、多くの国民にとっては今なお「国体」の名で親しまれるこの一大祭典が、大きな岐路に立たされている。「開催県の負担軽減」を大義名分に、これまで秋季に集中開催されてきた競技を年間を通じて行う「通年開催化」へと舵を切るという。一見、時代の流れに即した合理的な改革のように聞こえるが、我々はこの変更がもたらすであろう深刻な損失を、断じて看過することはできない。
そもそも国体とは、単なるスポーツの競技会ではなかったはずだ。それは、開催地に全国から選手や応援団が集い、天皇皇后両陛下のご臨席を賜る、国家的行事であった。数日間にわたって県内各地で熱戦が繰り広げられ、県民が一体となって選手を迎え、応援する。その熱気、高揚感こそが、国体の魂ではなかったか。
通年開催は、この「魂」を根本から破壊するものである。
年間を通じて競技が分散されれば、大会は単なる「競技会の寄せ集め」に成り下がる。あの、県全体がひとつの祭典に向かって盛り上がる独特の一体感は霧散し、地域の熱気は冷めてしまうだろう。総合開会式や閉会式だけを残したところで、それはもはや骨格を失った儀式に過ぎない。選手や役員、ボランティア、そして観客が同じ時期に同じ場所に集うからこそ生まれる感動と交流が、国体の最も尊い価値であったことを、改革論者は忘れているのではないか。
また、地方創生という観点からも、この改革は大きな疑問符が付く。国体は、開催県にとってインフラ整備を推進し、観光や宿泊、飲食といった地域経済を短期間で大きく活性化させる起爆剤としての役割を担ってきた。全国から訪れる多くの人々がもたらす「国体特需」は、地方にとって何物にも代えがたい恵みであった。しかし、通年開催によって人の流れが平準化されれば、その経済効果も薄まり、起爆剤としての力は失われるだろう。
もちろん、開催県の財政的、人的な負担が大きいという現状は理解できる。しかし、その解決策が、なぜ伝統と一体感を切り捨てる「分散化」でなければならないのか。真に議論すべきは、大会規模の肥大化そのものではないだろうか。過剰な施設整備を求めず、競技種目を精選するなど、大会そのものを簡素化し、身の丈に合った形へと原点回帰することこそが、本質的な改革への道であるはずだ。
「国体」から「国スポ」へと名称を変え、そして今また、その開催形式までをも変えようという動きは、効率や負担軽減という耳障りの良い言葉の裏で、我々が守り育んできた大切な価値をないがしろにする、近年の風潮の表れに他ならない。
目先の負担軽減と引き換えに、国体が長年培ってきた国民の一体感、地域の誇り、そして日本のスポーツ文化の伝統を失ってよいはずがない。この改革案に対し、今一度立ち止まり、我々が本当に失おうとしているものの大きさを真摯に見つめ直すことを、強く求めたい。
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