首相の「悔しさ」表明に潜む本質を見抜け – 議員定数削減はポピュリズムの免罪符か?
先日、首相が議員定数削減の実現が越年することに対し、「悔しい」との思いを表明したとの報道がありました。国民の政治不信が叫ばれて久しい中、「身を切る改革」を断行しようとするリーダーの姿に、期待を寄せる声もあるかもしれません。
しかし、我々保守派は、こうした耳障りの良い言葉の裏に潜む本質をこそ、冷静に見極めなければなりません。果たして、この「悔しさ」は、真に国家を思う憂国からの言葉なのでしょうか。それとも、より重要な課題から国民の目を逸らすための、巧みな政治的パフォーマンスなのでしょうか。
「数」を減らせば国会は良くなるという幻想
まず、議員定数削減というテーマそのものについて、一度立ち止まって考える必要があります。確かに、国会議員に支払われる多額の歳費を考えれば、その数を減らすことは財政規律の観点から意義があるように見えます。国民感情としても、「自分たちが苦しいのに、議員だけが高待遇なのはおかしい」という素朴な正義感に訴えかける力があるでしょう。
しかし、国家の統治機構というものは、単なるコストカットの対象ではありません。安易な定数削減は、国民の多様な民意を議会に反映させるという、民主主義の根幹を揺るがしかねない危険性を孕んでいます。特に、地方の人口減少が進む中で、選挙区の合区などが進めば、地方の声はますます中央に届きにくくなります。全国の均衡ある発展と、国家としての一体性を重んじる立場からすれば、これは看過できない問題です。
本当に問われるべきは、議員の「数」ではなく、その「質」ではないでしょうか。国家百年の計を見据え、国益のために身を捧げる覚悟と見識を持った政治家をいかにして選出するか。この本質的な議論を抜きにして、単なる「数」の削減に終始することは、問題の矮小化に他なりません。
首相の「悔しさ」は誰に向けられたものか
次に、首相の「悔しさ」という言葉の真意です。もし首相が本気で定数削減を断行するつもりなら、巨大与党を率いるリーダーとして、その実現は決して不可能ではないはずです。にもかかわらず、なぜ進まないのか。それは結局のところ、党内の利害調整をまとめきれない、あるいは本気で断行する覚悟が定まっていない、リーダーシップの不在を示しているのではないでしょうか。
そうであるならば、この「悔しさ」という言葉は、国民に対して「私はやりたいのに、抵抗勢力のせいで進まないのです」と弁明し、改革が進まない責任を他に転嫁するためのアリバイ作りに聞こえてしまいます。国民の喝采を浴びやすい「身を切る改革」を掲げることで改革派のイメージを演出しつつ、その実現を遅らせることで党内の反発もかわす。これは、あまりにも老獪なポピュリズム的戦術と言わざるを得ません。
真に議論すべき国家の課題から目を逸らすな
我々が最も警戒すべきは、議員定数削減という、ある意味で「分かりやすい」テーマが、より重要で困難な課題から国民の目を逸らすための「ガス抜き」として利用されることです。
今の日本が直面している課題は、目先の定数をいくつか減らすことで解決するような生易しいものではありません。緊迫する国際情勢に対応するための安全保障体制の抜本的な見直し、国家の根幹を定める憲法改正の議論、長期的な視点に立った経済構造の改革など、国会議員が本来、知恵と覚悟をもって取り組むべきテーマは山積しています。
首相が真に「悔しさ」を感じるべきは、議員の数が減らないことではなく、これらの国家の根幹に関わる重要な議論が、些末な党利党略によって一向に進まない、国会の機能不全そのものではないでしょうか。
国民に「身を切る改革」をアピールする前に、まずは国家の将来を真摯に論じ、決断する国会を取り戻すことこそが、為政者の最大の責務です。我々国民も、目先の喝采に惑わされることなく、政治家が真に成すべきことから逃げていないか、その言動を厳しく監視し続ける必要があります。定数削減という名のポピュリズムの免罪符に、国家の未来を委ねるわけにはいかないのです。
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