議員定数削減は国益か? 「身を切る改革」という名の衆愚政治への誘い
岸田文雄首相が、衆議院の議員定数削減について「来年には成案を得たい」と意欲を示したとの報道に接し、深い憂慮を禁じ得ない。政治資金問題で失われた国民の信頼を回復するため、「身を切る改革」を断行する姿勢をアピールしたいのだろう。一見すると、国民の喝采を浴びそうな勇ましい決断に見える。
しかし、我々保守を任じる者は、こうした耳障りの良いポピュリズムにこそ、警戒の目を向けねばならない。国家の基本設計であり、民主主義の根幹をなす議会のあり方を、目先の政局や人気取りのために軽々しく変更することは、将来に大きな禍根を残す愚行である。
「改革」の名の欺瞞性
まず問いたい。議員の数を減らすことが、果たして真の「改革」と言えるのだろうか。議員歳費や経費の削減効果は、国家予算全体から見れば微々たるものだ。財政再建という大目標に対し、アリの一穴にも満たない。これを「身を切る改革」と称するのは、国民を欺くレトリックであり、政治が取り組むべき本質的な課題、すなわち経済再生、安全保障の強化、社会保障制度の再構築といった難題から目を逸らさせるための「ガス抜き」に過ぎない。
政治不信の本質は、議員の「数」が多いことにあるのではない。国民の信託に応えるだけの国家観や見識、そして実行力を欠いた政治家が一部に存在し、政策論争よりもスキャンダルや党利党略が優先される現状にある。数を減らせば、政治の質が向上するというのは、あまりにも短絡的な幻想だ。
民主主義の質の低下という代償
むしろ、安易な定数削減は、我が国の民主主義の質を著しく低下させる危険性をはらんでいる。
第一に、「民意の多様性」が損なわれることだ。議員とは、国民の多様な意見や価値観を国政に反映させるための代理人である。その数を減らせば、それだけ国会に届けられる声の種類も少なくなる。特に、地方や少数者の声は、ますます政治の舞台から遠ざけられることになるだろう。選挙区が広域化すれば、地域に密着したきめ細やかな活動は困難になり、結局は知名度や組織力を持つ候補者ばかりが有利となる。これは、地方の切り捨てであり、中央集権化をさらに加速させるものに他ならない。
第二に、「国会の機能低下」である。議員一人ひとりが担うべき責任は、予算、外交、安全保障、厚生労働など多岐にわたる。定数を削減すれば、議員一人当たりの負担は増大し、複数の委員会を掛け持ちせざるを得なくなる。結果として、各法案に対する専門的な知見に基づいた深い審議は望むべくもなくなり、審議の形骸化が進むだろう。皮肉なことに、これは政府提出法案をチェックする国会の監視機能を弱め、官僚への依存度を高める「官僚主導」への回帰を招きかねない。立法府の弱体化は、三権分立の精神を揺るがす重大な問題である。
政局の道具とされる国家の礎
今回の定数削減論が、自民党と公明党との間の政治的駆け引きの中から生まれてきたという事実も見過ごせない。国家の統治機構の根幹に関わる議論が、連立維持のための取引材料として扱われているとすれば、それは断じて許されることではない。
議員定数の問題は、一票の格差是正や選挙制度全体のあり方、そして二院制の役割分担といった、より大局的な視点から、冷静かつ慎重に議論されるべき国家の重要課題である。目先の政局の都合で結論を急ぐべきテーマでは断じてない。
我々が目指すべきは、議員の数を減らして満足するような安易な改革ではない。議員一人ひとりが国家国民への責任を自覚し、高い専門性と倫理観を持って職務に邁進できる環境を整えること、そして、生産的な政策論争を通じて国家の進むべき道を示す、強く健全な議会を取り戻すことである。
「身を切る改革」という甘言に惑わされてはならない。それは、民主主義の基盤を痩せ細らせ、我が国の活力を削ぐ危険な道である。今こそ、国民は目先の人気取りに流されることなく、国家百年の計を見据えた、真の政治改革とは何かを冷静に見極めるべき時である。
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