【警鐘】高校生扶養控除縮小は「子育て支援」にあらず。国家による家庭支配と増税への序曲だ。
政府が「異次元の少子化対策」の財源として、高校生の扶養控除縮小を検討しているという。児童手当を高校生まで拡充するための財源だというが、この甘い言葉に騙されてはならない。これは「支援」の名を借りた、子育て世帯、とりわけ真面目に働き納税してきた中間層を狙い撃ちにする実質的な「増税」であり、国家が家庭に過剰介入する危険な一歩である。
「右のポケットから奪い、左にわずかばかり返す」という欺瞞
今回の検討案の本質は、極めて単純だ。扶養控除という、税負担を軽減する「自助努力への支援」を取り上げ、代わりに政府が直接カネを配る「児童手当」に形を変える。しかし、多くの世帯にとって、これは単なるマイナスにしかならない。
年収にもよるが、扶養控除(特定扶養親族・63万円)によって得られる減税額は、所得税と住民税を合わせれば年間数万円から十数万円にのぼる。一方、拡充される児童手当は月1万円、年間12万円だ。一見、トントンに見えるかもしれないが、高所得層に限らず、真面目に働き、ある程度の収入を得ている世帯ほど減税額が大きく、手当の額を上回るケースが続出する。つまり、手元に残るお金は確実に減るのだ。
これを「子育て支援」と呼ぶのは、国民に対する完全な欺瞞である。政府は「所得制限を撤廃する」という美名を掲げるが、その裏で、これまで自らの努力で家庭を支えてきた大多数の中間層から、静かに財産を奪い取ろうとしているに他ならない。これは富の再分配などという生易しいものではなく、国家による資産の付け替え、事実上の増税に他ならない。
家族の自立を蝕む、国家の過剰介入
そもそも、保守主義の観点からすれば、国家が個々の家庭の子育てに直接現金を給付するという発想自体に、我々は警戒心を持たねばならない。
家族とは社会の最小単位であり、親が子を育てるのは第一義的な責任であり、また尊い権利でもある。扶養控除制度は、その親の責任と努力に対し、国家が税制面で敬意を払い、間接的に支援するという、まさに「自助努力」を尊重する制度であった。
しかし、これを廃し、国家が直接現金を配る形に移行することは、「国がカネをやるから、子育ては国の管理下にある」というメッセージに繋がりかねない。国民の自立心を削ぎ、国家への依存度を高める。それは、かつての民主党政権が「子ども手当」でやろうとしたことと何ら変わりはない。一度は国民がNOを突きつけ、自民党自身も批判したはずの政策に、なぜ今になって回帰するのか。政治の信念のなさに呆れるばかりである。
目先の現金給付に喜ぶ国民を増やし、政府への支持を取り付ける。その代償として、我々は家族の自立という、国家の礎たるべき最も重要な価値を失うことになるのだ。
財源論からの逃避、政治の怠慢
「異次元の少子化対策」と大見得を切った以上、その財源は聖域なき行財政改革によって生み出すのが筋である。長年にわたり放置されてきた歳出の無駄を徹底的に洗い出し、国家のスリム化を断行する。それこそが、将来世代への責任を果たす政治の本来の姿ではないか。
しかし、政府が選んだ道は、国民内部で負担を押し付け合うという、最も安易で怠慢な選択だった。子育て世帯から取り上げ、子育て世帯に配る。これでは、社会全体で子どもを支えるという気概は微塵も感じられない。痛みを伴う改革から逃げ、取りやすいところから取るという姿勢は、国家財政の規律を著しく損なうものである。
我々が求めるべきは、バラマキ政策ではない。真に子供を産み育てやすい社会の実現だ。それは、減税による可処分所得の増加であり、過剰な規制を撤廃し、経済を活性化させることによってこそ成し遂げられる。国民の財布を直接いじるのではなく、国民が自らの力で豊かになれる環境を整えることこそ、政府の役割である。
今回の扶養控除縮小案は、単なる税制の変更ではない。それは、日本の家族観、国家観を根底から揺るがす、極めて危険な提案である。我々国民は、「支援」という甘言に惑わされることなく、その裏に隠された増税と国家統制強化という本質を見抜き、断固として「NO」の声を上げねばならない。
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