香港マンション火災は対岸の火事ではない。日本の「当たり前」の安全を守るために我々が考えるべきこと。
先日、香港の中心部で発生したマンション火災のニュースに、胸を痛めた方も多いことでしょう。多くの尊い命が失われたこの悲劇に、まずは心から哀悼の意を表します。
しかし、我々はこの痛ましい出来事を、単なる海外のニュースとして見過ごしてはなりません。この火災の背景を深く見つめると、現代日本が直面し、あるいは忘れかけている重要な課題が浮かび上がってきます。
「規制」は我々の命を守る最後の砦である
報道によれば、火災が発生したビルは築年数が古く、スプリンクラーなどの近代的な消防設備が十分に備わっていなかったとされています。さらに、香港で社会問題化している「劏房(タンフォン)」と呼ばれる、一つの住戸を違法に細かく間仕切りした構造が、被害を拡大させた可能性も指摘されています。
これは、経済効率や個人の事情が、人々の「安全」という絶対的な価値を上回ってしまった悲劇と言えるでしょう。行き過ぎた自由主義や野放図な自己責任論が、本来、行政が厳格に守るべき安全基準を形骸化させてしまった結果ではないでしょうか。
翻って、我が国日本を考えてみましょう。日本では、建築基準法や消防法によって、建物の構造や設備、避難経路の確保などが厳しく定められています。手続きが煩雑である、コストがかかるといった批判の声が聞かれることもあります。
しかし、今回の香港の事例は、こうした「お役所仕事」と揶揄されがちな厳格な規制こそが、いかに多くの国民の生命と財産を守ってきたかを逆説的に証明しています。先人たちが幾多の災害の教訓から築き上げてきたこの「安全の砦」を、我々は安易な規制緩和論によって崩してはならないのです。
失われつつある「共同体の絆」という防火壁
もう一つ、我々が目を向けるべきは、地域社会のあり方です。日本ではかつて、町内会や自治会、そして消防団といった地域共同体が、防災・防火の最前線を担ってきました。お互いの顔が見える関係の中で、「火の用心」を呼びかけ合い、いざという時には助け合う。この「共同体の絆」こそが、法規制だけではカバーしきれない、社会の最も重要な防火壁でした。
都市化や核家族化が進み、隣に誰が住んでいるのかも分からないという状況が広がる現代、この日本の良き伝統は失われつつあります。香港の雑居ビルで起きた悲劇は、人々がバラバラに分断され、共同体としての防災意識が希薄になった社会の脆弱性を浮き彫りにしたと言えるでしょう。
個人のプライバシーは尊重されるべきですが、それと共同体への帰属意識は決して矛盾するものではありません。地域の防災訓練への参加や、消防団への協力など、我々一人ひとりが、再び地域とのつながりを意識し、育んでいく努力が求められています。
「安全」という国柄を守り抜く覚悟
国民の生命と財産を守ることは、国家の最も根源的な責務です。経済の発展や個人の自由も、人々が安全に暮らせるという土台があってこそ花開くものです。
香港の火災は、その土台が崩れた時、社会がいかに脆いものであるかを我々に突きつけました。我々は、この悲劇を対岸の火事とせず、我が国のあり方を静かに見つめ直す契機としなければなりません。
世界に誇るべき、日本の「当たり前の安全」。それは、決して自然に与えられたものではなく、先人たちの知恵と努力、そして時には厳しい規制や、少しばかり面倒な地域とのお付き合いによって、かろうじて守られてきたものです。
この「安全」という我が国の国柄を、断固として守り抜き、次の世代へと受け継いでいく。それこそが、今を生きる我々に課せられた、最も重い責務ではないでしょうか。
————-
ソース