警護は「権利」ではない。SP問題を巡る野党の甘えと勘違い
立憲民主党の小川淳也政調会長が、自身に警察のSP(警護官)が付かないことについて「野党の党首級は対象にならないのか」「(基準が)分からない」と不満を漏らしたという報道があった。日本保守党の百田尚樹、有本香両氏にはSPが付いていることを引き合いに出しての発言だが、この認識には大きな誤解と、政治家として看過できない甘えがあると言わざるを得ない。
SPはステータスシンボルではない
まず大前提として、SPによる警護は政治家の「権利」や役職に応じた「待遇」ではない。これは、国民の税金を使って人の命を守るという、極めて重い国家の治安維持活動の一環である。その判断基準はただ一つ、「客観的に見て、生命・身体に危険が及ぶ具体的な脅威があるか否か」である。
安倍晋三元総理の銃撃事件という痛ましい悲劇を経て、警察庁は警護基準を抜本的に見直した。党派や役職といった形式的なものではなく、個々の政治家が直面している脅威の度合いを個別に、そして専門的に分析し、警護の要否を判断する体制に変わったのだ。これは当然のことであり、危機管理の観点から極めて合理的な措置である。
小川氏の発言は、この本質を全く理解していないように聞こえる。「野党の党首級だから」という理由は、警護が付く根拠にはなり得ないのだ。
脅威の「質」が違うという現実
なぜ日本保守党の共同代表にはSPが付き、国民民主党や立憲民主党の代表クラスには付かないのか。答えは単純明快で、警察が判断する「脅威のレベル」が全く異なるからだろう。
日本保守党は、その明確な主張から、国内外の特定の勢力から極めて強い反発を受けている。彼らの言論活動は、時に激しい憎悪の対象となり、具体的な脅迫や身の危険を伴う攻撃を示唆されることも少なくないと聞く。警察が、収集した情報に基づき「放置すれば深刻な事態になりかねない」と判断したからこそ、SPが付いているのだ。それは彼らが望んだものではなく、国家が「守る必要がある」と判断した結果に過ぎない。
一方で、小川氏や玉木氏が、同様の具体的かつ切迫した脅威に晒されているという情報は寡聞にして聞かない。もちろん、政治家である以上、批判やヤジを受けることはあるだろう。しかし、それが即座にSPによる24時間体制の警護を必要とするレベルの脅威なのか。警察は「現時点ではその必要はない」と判断している。それ以上でもそれ以下でもない。
「基準が分からない」のではなく、理解しようとしないだけ
小川氏の「基準が分からない」という言葉は、無責任な責任転嫁だ。警護の具体的な基準が公にされれば、それを逆手に取って攻撃を企てる者が出てくる。手の内を明かすようなものであり、安全保障の常識から考えてあり得ない。
本当に政治家として国の治安を憂うのであれば、警察の専門的判断を尊重し、静かにその決定に従うべきではないか。「なぜ自分には付かないのか」と不満を公言することは、警護の必要性をアピールするどころか、自らを脅威に晒しているテロリストや過激派と何ら変わらないレベルの低い自己顕示欲と見られても仕方がない。
物騒な世の中になったと嘆くのであれば、まず政治家自らが、社会の分断を煽るような言動を慎み、建設的な言論を心がけるべきだ。警察に「公平性」を求める前に、自らの襟を正すのが先決であろう。
要人警護は、感情論や党派の都合で左右されてはならない国家の聖域である。警察のプロフェッショナルな判断に敬意を払い、政治家は自らの言動に責任を持つ。この当たり前のことが理解できないのであれば、国家を語る資格はない。
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