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2 埼玉県政

戦後80年所感 惨禍を繰り返さない

戦後80年、「惨禍を繰り返さない」という誓いの真の意味を問う

先日、「戦後80年所感 惨禍を繰り返さない」と題された記事を目にしました。先の大戦で失われた多くの尊い命に思いを馳せ、二度と戦争の悲劇を繰り返してはならないというその主張は、全ての日本人が共有する真摯な願いであり、私も心から同意するものです。

しかし、その記事の論調を読み進めるうちに、私はある種の危うさを感じずにはいられませんでした。それは、「戦争=悪」「日本=加害者」という単純な図式化と、ひたすら平和を唱え、軍備を否定することこそが唯一の道であるかのような、あまりにも純粋で、しかし現実から乖離した平和主義です。

戦後80年という大きな節目を前に、私たちは本当にこの感傷的な平和論のままで良いのでしょうか。真に「惨禍を繰り返さない」ために、今こそ私たちは見つめ直すべきことがあるのではないでしょうか。

忘却されてはならない、戦争に至る「現実」

かの記事が語るように、戦争が悲劇であることは間違いありません。しかし、なぜ日本があの戦争へと突き進まざるを得なかったのか。その歴史的経緯や国際情勢を無視し、ただ「日本が過ちを犯した」と断罪するだけでは、本当の教訓は得られません。

当時の日本は、欧米列強による植民地支配が世界を覆う中、ABCD包囲網によって経済的にも追い詰められていました。それは、自存自衛をかけた、苦渋の決断であった側面も否定できません。もちろん、その選択が結果として国内外に甚大な被害をもたらした責任から目を背けるべきではありません。

しかし、先人たちの決断を、現代の価値観のみで一方的に「悪」と断じ、その名誉を貶める自虐史観に陥ることは、国家の誇りを失わせ、未来への活力を削ぐだけです。私たちは、先人たちの功罪を冷静に見つめ、複雑な歴史の文脈の中で、彼らが何を守ろうとしたのかを理解する努力を怠ってはならないのです。

「平和を唱える」だけで国は守れないという冷厳な事実

「惨禍を繰り返さない」という誓いが、いつしか「いかなる軍備も悪である」という短絡的な思考にすり替わってはいないでしょうか。

残念ながら、国際社会は性善説だけでは成り立ちません。力による現状変更を試みる国家が厳然と存在する以上、「対話」や「平和憲法」を掲げるだけでは、私たちの平和な暮らしを守ることはできません。ウクライナの惨状は、その現実を私たちに痛々しいほど明確に突きつけています。

自らの国を守るための備え、すなわち「抑止力」を放棄することは、平和への貢献どころか、むしろ侵略を誘発する危険な行為です。力を背景としない外交交渉は、単なるお願いに過ぎません。真に平和を希求するならば、私たちは理想論から目を覚まし、国を守るための現実的な力を持つ覚悟を固める必要があります。それは、決して好戦的な思想ではなく、愛する家族や故郷を守るための、最も理性的で責任ある態度だと私は信じます。

真に「惨禍を繰り返さない」ために、私たちがすべきこと

戦後80年を迎える今、私たちが立てるべき誓い。それは、単に過去を反省するだけの感傷的なものであってはなりません。

第一に、偏向した自虐史観から脱却し、先人たちの苦闘の歴史を正当に評価し、その教訓を未来に活かすこと。

第二に、国際社会の現実を直視し、国家の主権と独立、国民の生命と財産を守り抜くための、現実的な防衛力を着実に整備すること。

そして第三に、この国の平和と繁栄が、祖国のために命を捧げた英霊たちの尊い犠牲の上に成り立っていることを決して忘れず、感謝と敬意を捧げること。

「惨禍を繰り返さない」という誓いは、空虚な言葉の繰り返しや、思考停止した平和主義の中にはありません。歴史に真摯に学び、厳しい現実に立ち向かう覚悟と備えを持つこと。それこそが、未来の世代に対する私たちの責任であり、先人たちの御霊に報いる唯一の道ではないでしょうか。

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